裏になるもの

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「君と彼女と彼女の恋。」メモ・リンク

随時更新。

1 雑感メモ

  • 力作なのでこちらも全力で殺しに行きます
  • 「作り手からプレイヤーへの倫理的糾弾」だとして読んじゃうとかなりもったいない
    • リアクションが「襟を正す」か「開き直る」か「無視」の三択にしかならないから
    • 「ととの。」を受け取った我々がしなければならないのは「正しく考えること」であって「正しく在ること」ではない
  • 今のところ本作におけるゲームという制度(と書いてシステムと読む)のエグさについて言及している文章がないので自分で書くしかない
    • シナリオがシステムを超えたとか動かしたとかいう感想を見かけたんだけど、これは真逆では。徹底してシステムがシナリオに対して上位だったと思う
  • アプローチの方向
    • 作品内テキストから
    • 作品外テキスト(製作者の発言など)から
    • 例えば、作品外で下倉バイオさんはこう言っていたが、それはどの程度達成されたか作品内から検証する、というような論の立て方がある
      • 同様に、作品内からこういうことが導き出せると思うが、その論拠の補強として作品外で下倉バイオさんはこう言っている、という方法もある
      • 両者の帰納・演繹関係をごっちゃにしない
    • 今は意識的に作品内テキストから始めようと思っている。そうしないと多分浮つく
      • ただセーブが削除される仕様上、テキストの再読が困難を極める。スクリーンショットはあるけど
      • SS使わない場合、どうやったって記憶からしか語れないわけで、それがより各人各様を後押ししてしまっている側面はあるかも。つまりそれぞれの中の「ととの。」語りでしかない。個人的には、原テキストを引用しつつ話を進めるスタイルでいきたい。
  • 美雪・アオイ
    • skezyさんと同じく(?)、美雪好きだったんだけど思想的選択としてアオイを選んだ。これはけっこうもにょるところ
      • 美雪が好きなのにアオイを選ばせるこのゲームの制度(システム)はクソ、と言っていいのか?
      • 制度など無視して美雪を選ぶべきだったのでは?
    • 美雪を選択したらどういうエンドになるのかを予想する、というのもやっておいた方がいいか(この先もし再プレイしちゃったら二度と「予想」はできないわけだし)

公式サイト

プレイレビュー - ニトロプラス『君と彼女と彼女の恋。』

忸怩たるループ0309
9月9日。
Ilmari(@_imaki)/2010年05月 - Twilog
5月11日前後。

あとまあ、女の子を救うことが自分を救う、ひいてはそれを眺めるプレイヤーを救うという欲望と妙に絡まり合ったりしているので、救う救わないの話に関しては慎重にならざるをえない。
ninomae_fumi 2012-07-27 18:00:10
プレイヤーがエロゲやるときに自己対象化するキャラクターがヒロインであるパターンというのが一定存在しているので、この辺をまずテクスト部分から切り分けた上で、テクスト上においていかにヒロインを主人公が救うのか、それによって主人公がいかに救われるのかについての分析が必要になる。
ninomae_fumi 2012-07-27 18:02:30
主人公がヒロインを救う話を分析するためには、まずそれだけの事前分析という手続きというものを踏まねばならんので、そこをおっぽり出して安直に救いについての話をするのはどうかな的な感触。
ninomae_fumi 2012-07-27 18:04:15

Key周りのヒロインの救済について語る際に踏まえておきたいこと - Togetter
ととの。感想・レビューなど

はてブ参照。

3 参考作品

Fate/hollow ataraxia

コンプリート(小項目として全てのCGを回収する行為)を希求するプレイヤーについて。
八岐の園と虚ろな楽園(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

Fate/HWが特徴的なのは、別に主人公がループに「飽きた」と云ってること、そこから脱出しようとしていることではない。こうした方向性はおおむねループゲームには含まれてて、主要な命題となっている。むしろ「飽きた」という強がりを云わせるほどに、幸福な繰り返しが魅惑的であるという主張を織り込んでいることこそ、特徴的な部分といえる。

ループゲーが有限性に囚われたマルチシナリオ型ノベルゲーの変奏であり、その反復がマルチシナリオを何度も繰り返すことの変奏である、という観点からすると、「終わらせる」方向にプレイヤーを誘導するように作られている大半のループゲーは、コンプリートという審級――つまりは物語を「完成させようとする」書き手と読み手の欲望に忠実であると解釈できる。

一方、HWはそれを緩やかに迂回し、延々と飽きるまで同じことを繰り返すことを許容していて、物語のケリをつけても、延々と同じことを繰り返すことが許された構造になっている。物語を「完成させること」がゲームの終わりではなく、そこにあるものを享受し続けたいと思う限り享受してよい、というおおらかな態度がそこにある。テキストは大半のループゲー同様、終わりへとひたすら指向する話なのに、ゲームシステムはそうではない。この捩れはいったい何に起因しているのか、少し興味があるのだけど、とりあえずここまで。気が向いたら続きを。

八岐の園と虚ろな楽園(メモ) - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

「飽きた。つまんねえ」(Fate/hollow ataraxia)について 【 なすところをしらざればなり 】

そう、だから「飽きた。つまんねえ」とは、内容が「飽きた。つまんねえ」なのではなく、形式が「飽きた。つまんねえ」なのです。

「飽きた。つまんねえ」(Fate/hollow ataraxia)について 【 なすところをしらざればなり 】

輝かしい星が見る夢 ── 奈須きのこインタビュー | NETOKARU

奈須:ゲームである以上、面白いアイディアを盛り込もうという気持ちがありました。たとえば、実質的なラスボスであるアンリマユに開始直後から会いに行くことができるんですよ。けれど絶対に勝てない。しかし、少しプレイしてグラフィックルームに行くと、天の杯の形をしたステンドグラスがあってそこにCGが埋め込まれていくことが分かる。「欠落があるかぎり、この世界は回り続ける」とアンリは事あるごとに言います。そこで勘のいい人はイベントを全部見ないとアンリマユを打倒できないんだと気付く。要するに、全ての可能性を潰すことによってしか、この世界に別れを告げることはできないというメッセージをシステムからでも語ろうと。90年代前半まで、18禁ゲームというのは物語を楽しむのではなくCGを埋める目的でプレイされていた側面があります。CGをコンプリートしないとみんな気持ち悪くてやめられないんですよね。しかし、世界の終わりを知るということはその世界を殺し、次の世界=新作ゲームへと無慈悲に進むことなんです。それだけの情熱をもってコンプしたゲームは、その瞬間に忘れ去られる。僕が『hollow』でやりたかったのは、それを踏まえた上でひとつの世界に永遠に留まるか、それとも進んでいくのかを選択してもらうことでした。そしてアンリマユが考える正解は後者です。ある世界を食いつぶして先に進むことは尻軽な話ではなく、人が生きるということ自体がその繰り返しなんだから胸を張って食いつぶしていけ、というのが彼の言いたかったことなんです。だから、最後にバゼットと背中を合わせて別々の方向に走っていくというのは、思い出を永遠にするな、常にそれは更新されていくんだから自分の生き方にいじけたりするなというメッセージでもあります。しばしばその終わり方について「書を捨てよ、町へ出よう」的なオチだろうと言われたんですけど、全く逆というか……オタクでもいいじゃん、「外を捨てて書を読み続けろ」みたいな。お前らひたすらゲームをやり続けろってことですね(笑)。お前らがやり続ける限りは、俺たちも永遠に世界を作り続けるぜ、ということを発信したかった。

楽園の先に現れるもの―『Fate/hollow ataraxia』、「Realta Nua」

『Fate/hollow ataraxia』について - ストーカーという文字は恋する乙女と読みます

インタビューでこう仰っておりますが、しかし「その瞬間」に忘れない猿みたいなプレイヤー、つまりこの期に及んで飽きてなくて再プレイしちゃうようなプレイヤーにもそういう選択をさせる―――「それでもゲームやめさせる=次の世界=新作ゲームへ無慈悲に進ませる」ように作られている。むしろそここそが、アンリとプレイヤーが同一的である部分と言えるくらい。本当はこの期に及んで飽きていないアンリと、同じく飽きていないプレイヤー。彼らはどうして・どうやって、この理論上永遠に飽きずに続けられる世界を終わらせられるのか。

それが、「終わる事と続かない事は違う」ということです。

『Fate/hollow ataraxia』について - ストーカーという文字は恋する乙女と読みます

Fate/hollow ataraxia』を遊び尽くして、飽きて、いや飽きなくても食いつぶすくらいにやって、そしてやめて先に進むことは、認められている。いや、それこそが『Fate/hollow ataraxia』で語られてることだと言っても過言ではないくらい。別に町に出なくても現実に帰らなくてもいい、新しいゲームをやろうが何をやろうが構わない、しかし(このゲームを)終わらせないと先は(続きは)ないし、そして終わらせちゃっても全然構わない、むしろゲームというのはそういうものだ、そのように語られている。

食いつぶして、終わらせて、先に進む。ゲームとプレイヤーとの関係はそれでいい。そうつまり、先のインタビューの一文から改変して書くならば。とても素晴らしいゲームに出会って、それを輝かしい星と思えたならば、その終わりがどんなに辛くとも悲しんではいけない。それを糧にして、星の輝きに負けないものをその先に得られるように――たとえそれが不可能だと判っていたとしても――頑張っていかなくちゃいけない。……『Fate/hollow』がプレイヤーに求めるものは、そして与えたものは、そういうものではないだろうか。

『Fate/hollow ataraxia』について - ストーカーという文字は恋する乙女と読みます

ただ、目的語をゲームからキャラクターに変えた場合も同じ論理を適用できるのか、考える余地がある。誰助誰犠問題はまさにキャラクターを基点にして想像されるものだからだ。

Kanon

言うまでもないことだけど、「Kanon」における誰助誰犠問題は(そんなことはテキストに書かれていないという意味において)偽の問題であるのに対して、「ととの。」の誰助誰犠問題は実在する(テキストにそう書いてある)問題である。
物事の裏には意図があるので、なぜ「ととの。」では誰助誰犠設定が明確に記述されたのかを考える必要がある。
関連:Kanon問題[2009-2010] - Togetter見返してたら下倉バイオさんのツイートが入ってて笑った。

ななついろ★ドロップス

プレイヤーとプレイヤーキャラとの関係性の一例として。あまり重要ではない。